阿久悠さんと須磨学園のつながり


【理事長先生のお話】

かつての校歌は1940(昭和15)年2月11日に制定されました。第2代理事長・校長であった西田正先生が作詞、作曲は当時音楽を担当していた徳増春三先生によるものでした。

女子校のときの校歌は、「乙女」という言葉がでてくるので、共学校の校歌には適切ではない、ということで、新しい校歌をつくらないといけなくなりました。

さて、どうするか。色んな人に相談しました。当時、コンピュータのソフトウエアの会社を経営していた学園長に相談したところ、仕事の関係で、「作詞家、作曲家、を一人づつ知っている」ということでした。曲が先にできるのは、やりにくいだろう、ということで、作詞家を紹介してもらいました。

その方が阿久悠さんでした。阿久悠さんは、みなさんのお父さんお母さんの世代では有名な作詞家で、ピンクレディーをはじめとする色々なヒット曲の作詞を手がけておられました。さっそく作詞のお願いをしに東京にいったところ、快く引き受けてくださいました。

阿久悠さんは、淡路島のご出身で、「山の上に見える須磨学園…ああ、知ってるよ。淡路島からよく見えますよ。あの学校だったんですか。」と言ってご快諾くださいました。

阿久さんを前にして、「これから、どういう学校になりたいのか」、「どういう学校を目指すのか」、を熱く一時間ほど語りました。「作曲は、自分の選ぶ人にまかせてください。」ということだったので、おまかせしました。ゴールデン・コンビと言われた都倉俊一さんがしてくださいました。

そして、できあがったのが今の校歌です。

新しい学校をつくるにともない、この丘から虹のかかる空へ、そして世界に大きくはばたく生徒たちをイメージするすばらしいものになったと思います。

後から知ったのですが、阿久悠さんは5000曲作曲されていますが、校歌をおつくりなったのは5曲だけだったということです。
この時代を代表するすばらしい作詞家に本校の校歌をつくっていただけたことを本当にうれしく思います。

阿久さんのご冥福をお祈りします。



【学園長先生のお話】


阿久悠さんに作曲をお願いしたときに、阿久悠さんに見てもらった写真、飛行機から撮った須磨学園の写真、学校のパンフレットにも使っていますが、須磨学園の校地と海と淡路島と明石大橋が映っている写真があります。私は阿久悠さんはこの校歌をおつくりになるときに、その写真を見ながら作られたと思うんですね。で、私たちの卒業アルバムには、必ずその写真を使ってその写真の上に校歌を印刷しています。

 実は、私と阿久悠さんとの始まりは、会社が株式を上場した時に、会社の社歌を作ってくれというふうに、最初、お願いに行きました。みなさんは玄関のところに白い彫刻がおいてあって、その彫刻の前に学校の由来が書いてある石があることを覚えていますか。あの彫刻の石の文章を書いた人が、この学園の理事であった、足立巻一先生です。この足立先生は、昔、週刊新潮と大阪新聞を作るときの記者をしておられて、そのときに、足立先生のお知り合いの小谷正一さんという方がいらして、この小谷さんという方は昔になりますが、東京オリンピックの開会式のプロデューサーをされた方ですが、万国博のプロデューサーもされた方です。

 この小谷さんを昔、紹介してもらって、小谷さんのところに相談にいったのですね。「当代きってのすばらしい作詞家は誰ですか?」と聞いたんですね、そうしたらすぐに「それは阿久悠さんだろう」ということで、阿久悠さんに紹介をしてもらって、僕は会社の社歌を作ってくれと頼んだんですね。会って話をしていたら、すぐに言われました。「コンピュータのイメージが湧かない。コンピュータのイメージが湧かないから、ちょっと君のところの社歌はどうかな」ということでお預けになった。それから何年かして須磨学園の校歌を頼みに行った。

 その時にイメージが湧かない、ということでしたので、写真を持っていって、パンフレットだったと思うんですけれど。そうすると、その学校の向こう側には海があって、橋がかかっていて、淡路島が見える。その写真は今でもあって、本館の職員室の前にかけておきますので、ぜひ、見に来てください。  ということで、みんなにお願いがあります。いつもは校歌をしっかり歌わない人もいますが、今日の校歌は阿久悠さんに、感謝をこめて、思いをこめて、大きな声でなくていいから、思いをこめて歌ってほしいと思うんです。「いつか、君のところにいって、みんなに話がしたいなぁ」とおっしゃっておられましたが、それは叶えなかったですが、今日、阿久悠さんに感謝を込めて、みなさん、校歌を歌ってください。