学園長 訓話

 おはようございます。2学期の始業式にあたり、今日の話は2つありまして、まず一つめは秋についてです。

 暑い夏も終わりになりそうな雰囲気で、秋が感じられるような日になってきました。
 日本語では「何々の秋」ということをよく言います。
一番すぐピンとくるのは食欲の秋です。それからいろいろ思い返してみると、いろんな秋があると思うんですね。今いちど1分ぐらい、みなさんひとりひとり、秋とは「○○の秋」なのかということを考えてみてください。
 芸術の秋というふうに考えた人もいるかもしれません。
 読書の秋と考えた人もいるかもしれません。
 スポーツの秋というふうに考えた人もいるでしょう。
でも須磨学園にとって、学校にとって、生徒にとって、秋というのはやはり「勉強の秋」なのです。
 9月、10月、11月、12月と、これから4ヶ月たっぷり勉強する時間があるわけですけれども、ぜひこの秋という季節が勉強の秋であるということを覚えて、しっかりがんばってほしいなと思います。
 どうしたら頑張ることができるのかというと、それは非常に簡単で、プロジェクトマネジメントとタイムマネジメントをしっかりやれば勉強は大丈夫です。プロジェクトマネジメントとタイムマネジメントは東京の大学とか東京の会社で実際に今、展開されていますけれども、中学と高校でやっているのは須磨学園だけです。つまり、須磨学園だけのいわば秘密兵器なわけです。だからこの秘密兵器を使わないのはもったいないと思うんです。ぜひプロジェクトマネジメントとタイムマネジメントを活かして、ひとりひとりの成績をあげていってほしいと思っています。


 今日の2つめのテーマは、最近、「子どもが親を殺すという事件」とか、「親が子どもを殺すという事件」が相次いで起きています。どこの学校の校長もこういう事件が起こった後、愕然として「そういう事が起こるとは夢にも思わなかった」というふうに言っています。諸君らがどうするか、どうしていけばいいのかということについて、それはもちろん、そういうことがあってはならないわけですけれども、2つお願いをしたいことがあります。

 ひとつは、殺人をするゲームがあります。戦争ゲームがあります。みなさん、どうかお願いですから、ゲームであっても殺人をしないでほしいのです。ゲームであっても戦争ゲームをしないでほしいと思うんです。昔、ベトナムに戦争で行ったアメリカ軍の兵士の話を聞いたことがあります。その人はベトナム戦争でたくさんのベトナム人を殺したと言っていました。僕が「いつが一番つらかったか」と聞いたら、「戦争を終わってアメリカに戻ってきてからがつらい。」と。つまり人を殺したということとは一生ついてまわることであるということとです。もうひとつ、非常に印象的だったのが、「一人目を殺した時が一番つらかった。ところが1人殺すと、2人目を殺す時に、ぜんぜんつらくなかった」というんですね。私はその話を聞いて驚きました。一人目は大変だけれど、二人目を殺すときに簡単にできてしまった。ゲームであっても、人を殺すことを練習する。そうすると、簡単に二人目、三人目、四人目と行くようになってしまうのではないか。今日はゲームで150点とったということは、150回引き金をひいて150人を殺したということになります。ゲームをするということは楽しい事かもしれないけれども、そういうことを普段からするということによって、人間はどうなるのか・・・。

 僕が子どもの時、今から40年前にはゲーム機はなかったです。40年前の子どもの喧嘩というのはどういうものであったか。学校の遊び仲間に嫌なやつがいる。あいつはぜったいにいじめなきゃいけない、あいつはぜったい殴ってやんなきゃいけない、あいつはしばいてやんなきゃいけない、みんなで、そいつを呼び出すわけですね。そいつを呼び出して、喧嘩をする前に、必ず「おまえはとんでもないやつじゃ、だから我々は今からお前をしばく」というふうに言ってですね、喧嘩の前にえんえんと5分ぐらい口上を述べるわけです。それで喧嘩をした。それで決闘をしたわけですね。昔の子どもたちは。
 ところが、今の子どもたちにどういう喧嘩をしているのかと聞いたら、驚くような話が帰ってきました。いきなり、なぐる。ゲームのスイッチをいれてゲームスタートのボタンを押して、なぜ喧嘩をするのかを話をしないで、いきなりなぐるわけです。実際の喧嘩でも、ゲーム機のボタンを押すような感じで、いきなりなぐる。ゲーム機のボタンを押すような感じでナイフでさす。ゲーム機のボタンを押すような感じでピストルの引き金をひく。
 現代の暴力事件、現代の悲しいいろんな行動の中に、ゲームというものが大きな影を落としているのではないかなというふうに、自分が昔ゲームを作っていてその経験をふまえて思うようになりました。だからみなさん、須磨学園の生徒としてプライドをもって、殺人のゲームはしない、というふうに勇気をもって考えて、行動をしてほしいと思います。殺人のゲームをするということは、殺人の練習をしているということになるのではないかと心配をしています。

 ふたつ目のお願いは、諸君らはお父さんとお母さんとおじいさんとおばあさんと、家族に大切にされてここまで大きくなってきました。私がみんなに言いたい事は、「親の立場にたって親の考えていることを考えてみる」ということを是非してほしいと思うんです。それをもうすこし一般的に考えると、「相手の立場に立っていろんなことを考える」ということ、そういうことをすることを日頃からやってみてほしいんです。
 おそらく親の気持ちがわかるには、親の年にならないとわからない。おとうさんが40歳だったら、君たちが40歳にならないと親の気持ちはわからないかもしれません。それは子どもがいても子どもがいなくても、やっぱり親の年にならないと親の気持ちはわからないかもしれない。しかし、だからといってあきらめてしまわないで、だから万一、注意されて、厳しく言われて、頭きて、その時にですね、すぐに親と喧嘩をするとか親とぶつかるとかそういうことをしないで、まず親が何を考えてそういうことを言っているのか、という親の気持ちを考えてほしいんです。それで本当に喧嘩をしたくなったとしても、親が例えば40だったら、その喧嘩したいという気持ちは40までとっておいてほしいと思うんです。君たちが親の年になった時に、親として子どもにそう言うってことが、初めてわかるんじゃないかなと思うんですね。

 まとめですけれども、すこし難しく表現をすると、人と人とが意思を疎通するというのはコミュニケーションといいます。コミュニケーション理論では、「コミュニケーションは送り手ではなく、受け取り手の主体性によって成立する」というふうに規定されています。つまり送り手がいくらこう思って言ったってそれはダメなのです。「片思い」なんかそうですね。いくらラブレターを書いてもダメ。受け取った方がそう思わない限り、恋愛というコミュニケーションは成立しない。逆に、受け取り側がそうだと思えば、普通に洗濯した用意したハンカチでもですね、受け取り側がありがたいと思って毎日使えば、「甲子園の水色のハンカチ」になるわけです。テレビを見た日本中の人たちが水色のハンカチがすばらしいものと思うようになるわけです。
 だからみなさん、何か行動を起こすとき、何かメッセージを送るとき、「相手の立場に立って考えてみる」ということを、是非、今日から考えて実行してほしいと思います。

9月10月11月12月の諸君らの健闘を祈ります。


2006年9月1日 学園長 西和彦